昭和44年10月10日 朝の御理解


 御理解第12節『神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神』


 昨日もここの12節を頂きました。「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ」と仰られる。金光様にお会いしたいと思えば、御本部へ参拝しなければならない。そこで金光様に会うただけではいかん。神に会うただけではいかん。その金光様のご内容を頂くところ、頂こうというところから、信心が始められなければならない。まあ結論として金光大神、教祖生神金光大神の生きられ方というものは、私どもの信心態度であるというような意味の事を、昨日の朝頂きましたね。
 ここで大事になってくることは、その前の11節『神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ』とこう仰る。「天地の守りじゃから」ということは、私ども人間氏子の守りじゃからというようなふうにも頂けると思う。ね。
 御教えに、その神様が『神は声もなし、形も見えず、疑えばかぎりなし、おそるべし、疑いをされよ』ここのところが、信じてなったというかね。だから、信じれれるまで、神様の内容と言うかね、神様の心というものをほんとに知る為の修行が必要なのである。13節に『神は向こう倍力の徳を授ける』と仰る。倍力のより力を授けて下さると。
 これは、本気で神様のお心を分からしてもらう。そして、そのお心に沿おうとする努力をしなければ、力は受けられん。だから問題は、力を受ける前、神様が信じれれる前、そこで始めて『神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ』と仰るように、また、こちらからも離すことのできない信心が、言うなら確立するわけです。
 ですから、何の稽古でも同じで、それを体得するというところまでは、様々な、やはり経過というものがある。ですからね、いわゆる「三年、五年の信心ではまだ迷いやすい。十年と信心がつづいたら」と仰せられますが、私どもが、その十年とてもです、今申しますように、分からない、分からないけれども、神様に向かう姿勢というものが、いわゆる金光大神の生きられ方をもとにして、私どもが本気で稽古をしなければ、「神は倍力の徳を授ける」と仰る、その徳も力も受けられない。
 神様を信じて疑わない。そこから、生活、信心生活の味わいというものが生まれてくるのじゃないでしょうかね。ただあの漠然と神様を拝んでおると、十年どころか、二十年三十年拝んでおってもです、迷うたり、疑うたりせねばならんところに信心の、いわゆる確立をみることができないんです。
 先日、ある人が、(?)回るところへ勤めておるでしょうか。ところが最近どうも、始めの間は、たいへん良い所へ就職して有り難いと言うて、お礼を言うておった。ところが最近は、どうも、そこの工場に勤めておるわけですが、もう嫌になった。周囲も人間関係もあるし、仕事の(方にも?)言うならおもしろ味がなくなってきた。だから辞めたいと言うておるのをお届けするんです。
 なるほど聞いてみると、居ずろうもあろう。まあ、楽な事じゃなかろうとこう思うんです。て言うのも、ここんところをひとつ辛抱さしてもろうて、仕事が身に付くと言うか、仕事が楽しゅうなるまで、まあ頑張らなければいけない。今、あんたの年でどこに就職するか。また現在のような給料を、どこがあんたに出すか。もうそこを出さえすれば、また楽になれるうな思い方をしてるわけですね。まあ辛抱しなさい、と言うてお取次ぎさして頂いたんですけれども。
 私は、信心もね、そのくらいに、ところがやっぱあるんです。もういろいろな、いわゆる本当の神を分かろうと努め、行きよりますとですね、そこんところがやっぱり出てくるのである。いわゆる、スランプ状態といったようなものですね。何が何か分からん。辞めていった方がええようなところがあるんですけれども、やはり、そこんところを辛抱しなければならん。ね。そこんところを私は、「泣く泣く辛抱しいしいに」というところではなかろうか、とこう思う。
 ですから、ここでどうしてもあの求められるのは、三代金光様が『信心には辛抱することが一番大切でございます』と仰るのですから。辛抱することが一番大切。神に会おうと思えば、にわの口に出て見れば、なるほど空が神だなぁ、天地が神だなぁと。
 けれども、その天地との交流というか、なるほど「守りじゃから、離れることはできぬ」と仰る。なるほど、神様の御守護をこのように頂いておるなぁ、受けておるなぁと。なるほど天地が神だなぁ、というようなことが分かるんですけれど。それだけではない、神を信じるということも、だからなからなければ、または、「いいえ私は、天地を信じておる。神様を信じておる」と言うてもです、その力を頂かなければ、天地の働きを天地の働きとして、ほんとに現すことができん。ね。そこが辛抱。
 そこで、まあまたの御教えにもありますように『信心は天地日月の心になること肝要なり』と仰る。「天地日月の心」と。ね。それをまあ、「実意丁寧」だというふうに、私どもは頂いております。ね。
 天地日月ほど、進む事の間違いのない実意さをもって、私どもに(はん?)を示して下さる方は、またとない。言うなら、確実なものはないということ。ね。それは、暑さ寒さということだって、ね。
 去年、去年と今年というものが、ね。やはり同じ春夏秋冬を頂きましてもです、ね。春と夏が反対になることもなからなければ、ね、夏に冬のように寒いというようなことがないように、間違いのない働きを天地は私どもに示して下さる。「天地の心を心とする」ということは、そういう、いわゆる「天地日月の心になることが肝要だ」と。
 そこで、その「天地日月の心」を私どもは、「実意丁寧」と言い、教祖の神様がおとられになった生活態度そのものが「天地日月の心」だというふうに、まあ頂いておる。だから、どうしても「天地日月の心」というものをです、身に付けなければならない。教祖様の言わば生きられ方というものを私どもは知らなければならない。
 その為に、例えば、今回私、ご直会に頂いてきております、直会に頂いておる「金光大神覚」と。いわゆる教祖様がお生まれになり、ほとんどご一生をかけての、いわゆる生活態度、ご信心のご態度というものが克明に、ご自筆でもって記されておる。それを二代金光様が書き写しになっておられます。それを今度頂いてきた。
 もう内容に触れるということだけは、まあ知ってはおりますけれども、ね。このような時、教祖の神様はどのような態度で臨まれたか、といったようなことをです。ですからこの、実は教祖様の生きられ方そのものが、金光教の信心の教えと言うてもよいわけですね。ですから、それをどうでも本気で身に付けようという気にならなければ、いけんのです。
 だから、ほんとにそうだとこういう思いを、まず起こす事をお繰り合わせを克明に願わなければなりません。ね。そういう意味で私どもは、現教主様でもそうですけれども。取り分け、その、三代金光様。ね。もう私ども存知上げておるわけですが。その三代金光様がご一生を貫かれたご信心態度。神様へ向けられたご様子というものをです、私どもは、目の当たりに見てきておりますからね。
 やっぱその、金光様でも「生神様生神様」と皆に仰がれるほどしの御神徳をお受けになられる。それこそ「地上の太陽」だと、私どもが拝まして頂いて、まあおったわけですが。ね。その金光様ですらがです、「信心には辛抱する事が一番大切だ」ということを申しておられます。いわゆる、金光様のひとつの喝破ですよね。悟り。
 実にみやすい、例えば、教え方だと思うですね。ご自身がそこを通っておられるから、それが一番大切だと言うておられる事が分かります。ね。そういうその、ただ長う信心しておるというのではなくて、ね。いわゆる、教祖様の生きられ方というようなものが、を身に付ける事に精進させて頂いての、私は、十年なら十年、二十年なら二十年でなからなきゃならん。ね。
 それを身に付けていくまでにです、私は、辛抱しなければやりきれない、いわゆる三代金光様ね。親金光様が「座っておれば楽じゃ」と、僅か十三歳のお年で御結界奉仕になられた。ところが実は、そんなに楽な事はなかった。それこそ「泣く泣く辛抱しいしいに、辛抱しておりましたら」と述懐しておられます。
 その「泣く泣く辛抱しいしいに」辛抱しておられた。「辛抱しおりましたら、欲しい物もなくなり、思うこともなくなり」というおかげを受けておられます。その思うこともなくなり、欲しいこともなくなるというようなです、信心がお互い、果たして身に付いて行きよるだろうか。欲しいからばっかり。思うこと我情にするようにばっかり、何十年の信心がもし続けられておりますとです、ならばです、これは、ひとつ本気で考えを変えなければいけないことが分かります。
 そこんところまでが、「泣く泣く辛抱しいしいに」と仰る。本気で信心の勉強をさしてもらう。本気で教えを頂く。本気で金光様は、どのような生きられ方をなさったか、その生きられ方というものがです、決してその、普通の凡人ではできんというようなことじゃないのです。ね。
 お百姓をされながら、信心を続けられ、神の頼みがあって、専意、ね。もう一心にお取次ぎの御用なさって、そこに神様の仰せを寸分間違えられることなしに生きられた。だから素直な心を持って精進してさえいきゃ誰でも頂けれる道である。無学でも、ね。力はなくても、頭は良くなくても、金光様のご信心は、素直に頂いて行きさえすれば誰でもできれる道であることをです、体験しなけりゃならん。
 教祖様なら、このような時にどのような考えを持って、通りぬかれたであろうかと。それが三代金光様なんですね。「神信心には、辛抱する事が一番大切だ」というふうに教えられておられる。ね。そこから、思うこともなくなり、欲しいこともなくなり。人間は、思うことやら欲しいことやらがなくなったら、もうこんなにつまらんことはなかろうように思いますけれども、そうではない。
 その先にです、ね。「思うこともなくなり、欲しいこともなくなり、「有り難うて有り難うて」ね、「そのお礼の足りないお詫びばかりをいたしております」というところへ進展して行く。「有り難うて有り難うて」というところにです、人間の本当の幸せがあるのですよ。ね。
 私どもは、人間の幸せ、いわゆる私どもの幸せを願っての「ああありたい」「こうありたい」とこう言うたり、思うたりするんです。ところが、そう思うて信心を始めた、「右になりますように、左になりますうに」と。
 もう一月にもなりましょうか、大和さんの奥さんの兄さんが、こうして毎朝、朝参ってみえられます。どこへ参っても埒があかん。どこのお医者に行っても埒があかん。参っても養生してもいけん。それが一月余りお参りをされるうちに、ね。だんだんおかげを頂いて、ね。最近ではもう、この調子であったら、いよいよおかげを頂けれるというところまで楽になっておられる。ね。
 ただ、言うなら素直にですね、あれ達がお参りしよるということは知っておった。妹達があんな一生懸命打ち込んでおることは知っておった。たまたま、自分もそういう難儀に直面された時に、とにかく参ってみなさいと言うて参って、素直に、おそらく私が毎朝こしてお話してをしておることは、ね。その内容に触れるということは、なかなか難しいことであろうと思う。
 それでも、ただ黙って辛抱してから、一月なら一月間こうやってお参りを続けられて行くうちにです、自分の苦痛、体の苦痛がなくなっていった。このままでいきゃおかげ頂くぞ、という見通しがついてきた。昨日、一昨日でしたか、そんなお届けをしておられます。
 ですから、そこんところが、そこんところからが辛抱なんです。ね。そして分からして頂くことは、この言うなら、今、(    ?    )誰かにあったですけどね。この病気を機縁として、いわゆる神に会うたわけです。外へ出て見よ。神に会いたいと思えば、にわの外へ出て見よ。いわゆるにわの外へ出られたわけなんです。そして、そこに神様と会われたんです。「ほう、金光様っちゃこげなとこかいのう」と思うて、言わば、始めは金の布を持ってみえられたことかも分かりません。
 わけは分からんなりに、続けておるうちに、自分の五体の上に、変化が起こってきた。医者でも薬でも、どこへお参りしてもできないことが、かのうてきた。そこで、普通で言うと、それでおかげを頂いた。御祈念成就御礼参りでもすりゃそれで終わりというのが普通の信心でしょう。
 ところが、それからが信心辛抱なんです。ね。その信心辛抱していくうちにです、「あん時のやつは、(ふがい?)をしてようなったっちゃろう」と、「言わば、思いつきできてようなっとったじゃろう」というような思い方をせねばならないようなことが起きてくるんですよ。ね。言わば、「思うように問屋はおろさない」ということ。そこに、私は始めて「ここからが信心のお育てを頂かなければならん」と開眼しなければならん。ね。
 五年間なら先程の、五年間なら五年間ほど、ほんとに良かとこ就職した。私のようなもんに、これだけ給料ももうておかげ頂いて、家族の者を養うていけれる」と言うて喜んでおった。ね。いよいよその仕事が、これからほんとに身に付いて、楽しゅうなって、人からも「ここんところは、あの人がおらなきゃできん」と言われるか言われまいかというところになってきて、様々な人間関係がうるさくなって、もうそこを辞めようか、というようなことになった時にです、その人はもう、一生を過ちます。
 転々として、三年五年と勤めて、そして、ほんとのところへ出られる前に終えるように、信心も同じこと。ほんとに神様のおかげを頂いて有り難い。神様っちゃ有り難いお方じゃと思うとる間が、言うなら五年間ですよね、言うなら。
 ところがです、そうはいけない。「もう辞めよう」となってくる。ね。そういう、私は、時代が必ずある。そこんところを三代金光様は「辛抱することが一番大切だ」と。これはもう信心だけのことじゃない。けれども、取り分け信心はそうである。辛抱することが一番大切。
 そこからです、私はほんとうの信心の生き方が身に付いてくる。いわゆる、「天地日月の心」というものがです、「実意丁寧」という生き方によって現されてくる。ね。そこから、私は向こうことがです、私はほんとに「神に向かう」というのじゃなかろうか、とこう思うです。ね。
 『神は向こう倍力の徳を授ける』とこう仰る。おかげに向かって、いくら力んでお参りしておる時、それは、私は、倍力の徳、倍力の力にはならんと思うです。ね。おかげに向かって、まい進しっととるんですから、「このおかげば頂かんならんからお参りしよる」ね。ですから、それから先が、なら「神に向かって」というような信心に向かって、向かうところからです、いわゆるほんとうの生き方。
 ほんとうの人間の、言わば病気が治ったとか、ひとつのことが成就したとかいったようなことではなくてです、そこからだんだん、おかげを頂いてどのようなことになってくるかと言うと。「思うこともなくなり、欲しい物もなくなり」というおかげが、自分の心の中に感じられてくるようになるんじゃなかろうか。ね。信心さして頂いて、物の見方考え方が変わってくるという。ね。
 ほんとに、例えば信心の無かった時分はもう、「こげん大事な物はない」と思うておったお金ならお金がです、その大事な物でなくなってくるわけなんです。ね。「これさえあれば」と思いよったところが、これ、それなんか必要なくなってくるんです。ね。
 それは、信心が成長してまいりますと。子供がね、おもちゃが、もう自分の命のように大事にしてる。ね。そういうおもちゃのようなものを十五になったり、二十歳になってからでも大事にすることは無いでしょうが。同じ。
 信心さして頂いて、ほんとに、例えば私が申します、おかげを受けて、例えばさっきの例で言うと。五年、それまでは有り難い。いろいろおかげを頂いて有り難いけれどです、そのおかげに向かうのではなくてです、信心に向こうてくるというところからです、これは、願い以外、いわゆる、願いというものが変えられてくる。言うならば、神に会うた。そして、神の心を分からしてもらい、神の心に沿うて生活していく。神の心に沿うた信心生活を願うようになる。
 そこから、いわゆる、思う、思うことがなくなり、ね。欲しい物がなくなってくるという幸せがそこにある。私ども人間に、欲しい物やら思うことがなくなったら、もう人間、人間は、もうお終いなったように、まあ思うかもしれませんけれども、決してそうではない。
 その先に、有り難うて有り難うてというのがどんどん、今までかつて感じた事の無い有り難さ。その有り難さというものは、子供に家内に親に子に、自分の周囲の人達に、ね、それを発散していく事ができる。それを、の喜びに、皆が潤うていくことができるようになる。ね。そこからほんとうの幸せな家庭が築かれる。社会が明るくなってくるおかげになってくるわけ。ね。
 先ほどの例に申しました。疑えば限りないという、あの御教えね。『神は声もなし形も見えず、疑えばかぎりなし、おそるべしおそるべし』と。
 私どもの心が、おかげに向いておったものが、神に向かう、いわゆる信心に向かう。自分の心が次第に有り難うなっていく。次第に思うことがなくなり、欲しいことがなくなる。それをまたの御教えでは「我情我欲」と仰せられる。「我情」自分の思い。「はあ、どうでんこうでん、あげんならにゃ」といったような思いじゃない。欲しい。目を付けたら、あれはどうでんこうでん、自分が手に入れにゃならん、といったような「我欲」そういう「我欲」がだんだん少なくなってくる。その思うことが、もう神様にお任せをしていく生き方が一番だと分かってくるようになる。
 そこからですね、なら、先ほど申します「有り難うて有り難うて」という心が生まれて来る。思うことがなくなり、欲しい物がなくなってくるにしたがってです、有り難うなってくるわけなんですね。ね。
 ところがです、その有り難うなってくることが、それを、まあ「真に有り難い」ということになりましょう。「真に有り難いと思う心、すぐにみかげの始め」と仰るようにです、その有り難うなってくるところからです、今度は自分の思うておった、あれが欲しいこれが欲しいと思うておった以上のものがです、与えられてくる世界が開けてくることが有り難いんです。ね。
 だから、もうここまでで、もっとおかげを頂いて、これで終わりと、ね。もうお礼参りも済んだというようなところから、信心が「神に向かう信心」がなされるということになる。その間が辛抱なのです。場合には泣く泣く辛抱しなければならないこともある。けれどもそこに、いよいよ神の心の、いわゆる会うただけではない、神様の奥の底が分かるようになる。
 「落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知られる」と。これが信心のない人の考え方なんです。ね。自分が調子良かった時には、皆が集まってきよったが、自分がいよいよ難儀になってきて困ってきたら、誰も(うちはもん?)もない。側におっとったって寄りもせん。ほんとに悲しいことだというのが、こりゃ信心のない人の姿なんでしょう。ね。
 そこで、私どもの心が、信心に向かう、神に向かってくるとどういうことになるかというと、なら、なるほど「落ちぶれて」ということは「難儀」ということでしょう。ね。難儀に直面しておるというとるんでしょう。落ちぶれて、それこそ袖に涙のかかるような時ほどです、「神の心の奥ぞ知られる」ということになるのですよ。
 信心ちゅうものは、ほんとに、もう苦しければ苦しいほどにです、難儀であれば難儀であるほどにです、神様の心の奥が分かってくるという信心。それには、私どもがですね、いわゆる、「神に会おうと思えば」というその、会うただけではいけん。
 例えば、五年なら五年は、楽しゅうしよったけれども、後は人間関係で、その楽しい仕事ももう辞めるごとなって、他に替わろうとなってくる、というそこんところからがです、もう私は、ね、「神に向かう信心」にならなきゃいけん。ね。
 だから、そこんところをなるほど、もう嫌で嫌でたまらんごとなってくる時代があるにいたしましても、そこんところを、辛抱しいしい、泣く泣くでもしいしいに、辛抱していきよりましたら、今まで分からなかった神様の心の底が分かるようになってきた。
 袖に涙のかかるような時にです、ね。信心のない人は、人の心が分かって来たと。信心のある心を向けておる者は、いよいよ神様の心が奥深く分かって来た。ね。「痛いけれども有り難い」「苦しいけれどももったいない」というような信心が生まれて来る。ね。
 そこからです、いわゆる私どもがね、例えば、信心の薄かった、無かった時代に思うておった。「ああもありたい」「こうもありたい」と思うておった、そういう思い以上のことが現われてくる。それこそ夢にも思わなかったようなことが頂けてくる。そういうおかげの世界を私どもが開かせて頂く時、ね。始めて私は、神にほんとの意味においての会うた時。ほんとの意味合いにおいて神を頂いた時。、神様へ向かわせて頂くというそこから、ね。
 だから、皆さん今日のところよく分かって頂きたい。お金に向かっておる時はね、それは十年信心したって、神に向かっておるというわけじゃないですよ。ね。だから、それでは力を受けられないのです。力がないと辛抱しにくい。
 ところが、わが神が「神は向こう倍力」と仰る神に向かう。信心に向かう。ね。その向かうところから、倍力の徳も力も受けられる。ね。そこんところは、ただし、たいへん辛抱が要るところである。けれども、その辛抱も考えてみますとです、実に楽しい辛抱なんです、信心辛抱っていうのは。そら泣く泣くですよ、やっぱり。泣く泣く、叩かれれば痛いから泣きたいごとある。けれどもね、泣きごたるけれども、その底にはね、神様を頂いておる事が有り難うなってくるんですから、信心は不思議です。ね。
 しかもその、泣きたいごたる時に、いよいよ「神の心の奥が知られる」という信心が分かってくるんです。ね。そこからね、そこから、何が頂けるかというと、思うこともなくなり、欲しい物もだんだんなくなってきて「わが身は神徳の中に生かされてある喜び」ね。言うなれば、その喜びは、どういうことになってくるかというと、今まで夢にも思わなかった、といったようなです、結構な世界がそこから開けてくる。ね。そこに信心の成長がある。
 子供の時には、ね、おもちゃが欲しかった。そのおもちゃが欲しかったということがです、一生おもちゃが欲しいなんて言ったらおかしいようにです。私どもが「おかげが欲しいおかげが欲しい」のですね、信心で一生終わったとしたら、あなたの信心はいつまでも子供だということになるのです。ね。
 ですから、ね、今まで大切と思うておったものは、大切でなくなってくるように、だんだんなってきよる自分が、「はあ、成長してるんだなぁ」信心の無かった時と思い方が全然違う。見方が全然違ってくる。ね。そこに、ほんとうの意味での神恩報謝の生活というものができてくる。そこから、言わば、徳も受ける力も受ける。
 そこにです、ね、夢にも思わなかったと、願ってもいないのに、頼んでもいないのに、ね。例えば物事で言うなら、物事が成就してくる。商売で言うなら、商売がいよいよ繁盛してくる。家庭がいよいよ円満になってくる。ね。思いもかけないおかげがそこに集まってくる。それまでがです、信心辛抱なのです。ね。
 どうぞひとつ、おかげを、おかげを目当てということも、始めの間はいるです。でないと迫力が出ません。ね。「ここを助けてもらわんならんから」と思うから、朝参りも眠いけれどもするんです。修行もするんです。ね。
 けれどもね、そこに、神と会うたならば「はあ、これが神様だなぁ。神様なればこそだなぁ、信心ちゃ有り難いなぁ」ということが分かってきたら、今度は、その信心に向かにゃいかん。神に向かわにゃいかん。ね。
 そして、自分の心の中から、だんだん欲しい物思う、思うことやら欲しい物が消えて行くような、その自分というものが楽しゅうなってくる。有り難うなってくる。その「有り難い」という心にです、ね。「有り難うて有り難うて」という世界が開かれてくる。しかも、その「有り難うて有り難うて」ね、そのお礼が足りないということになってくる。その「有り難うて有り難うて」このようなおかげを頂きながら、お礼の足りないことにです、ね。「お詫びばかりをいたしております」というような信心。
 だから、もう、思い上がりがない。おかげを落とすことがない。ね。ほんとに信心もできないのに、このようなおかげを頂いてもったいない。「お礼の足りないことに、お詫びばかりをしております」と金光様、三代金光様のお言葉の中に、そういうようなものが含まれておる。
 そこに、私、ほんとの信心者の信心者としての、その信心態度というか、ね。信心さして頂く、それこそ「天地日月の心」にならしてもらう。いわゆる「実意丁寧」にならせて頂けれる信心生活が、このようにも有り難いものだと分かる。ね。そういう生き方。ね。そういう生き方をです、ね、私どもが一人でも多くの人に教え伝えて行かなければならん。それが「世界真の平和」に繋がるんです。人間の幸せに繋がるのです。
 幸せになりたい、幸せにしたい。様々な方法がとられます。けれども、それではほんとうの幸せということではない。ほんとの意味において、金光大神の道、金光教の信心というものがです、ほんとにただ今申しましたような信心をです、私どもが広めて行くというところから、人間の幸せ、平和があるということをです、思わしてもらうと、これはもうたいへんな、金光様の信心を頂いておる者は、責任があるわけなんです。
 こういう生き方があるのだと。ね。教祖金光大神が生きられた生きられ方というのは、こういうものだと、それは、そんなに例えば、火の中や水の中に立っとかんなんといったような修行ではなくて、人間が「天地日月の心になる」ということ。「実意丁寧な生き方をさしてもらう」ということ。こういう生き方をもってさえすれば、世の中には、争いは起こらない、世の中はいよいよ明るうなる有り難い世の中が顕現されるんだ、ということをです、お道の信奉者のひとりひとりがです、身を持って現わして行かなければならないというのですから、ね。
 私はその、この「金光大神覚」というものは、今度頂いてまいりまして、それをいよいよ強く感じるのです。ね。様々な人間の幸せということをです、ね。探求され願われておる現在に、金光大神の生きられ方をもってです、私どもが世に示して行かなければならない。そこにひとつの責任を感じるくらいな信心をね、お互い頂きたいと思うんですね。どうぞ。


明渡 孝